Amatua おじさん Jazz Pianist
Smiley Tama'
音楽ヒストリー73歳





目次
音楽活動年表とバンド年表
権之笑その1
権之笑その2
権之笑その3
松山おじさんジャズバンド 結成


Smiley Tama'の音楽活動年表

備考
1 1986 ジャズピアノを始める 伊賀上紘→栗田敬子・ヤマハミュージックスクール・渡辺綱幸  
2 1992〜2017 Jazz paradise (グレッチ木曜バンド)入団 渡辺綱幸bs・山本慎二dr・中井由美子pf・栗田敬子vo&pf・武智大和vo・池内美砂as・青木俊憲gt・小笠原慎吾tp 私を育ててくれたマザー・バンド
3 2000〜2001 権之笑 佐々木千之dr・門石久仁子bs 初めての自前バンド(リーダーバンド)でジャズ・ストリート出演
4 2000年9月 ジャズ切磋琢磨スタート(かちまちジャズ倶楽部副代表・愛媛ジャズネットワーク理事)   ジャズ団体運営設立
5 2001〜2002 松山おじさんジャズバンド 竹内学vo・大野英孝bs・内田修一dr 50歳前後の4人組
6 2003年3月 (松山)おいでや!ジャズストリート開催(代表世話人) 地域ジャズ振興の志  
7 2003〜2004 AKIKO&Erijha
&松山おじさんジャズバンドU
越智エリアflu・阿部晃子as・大野英孝bs・松岡正巳dr 美人フロントとおじさん
8 2004〜2006 ひまわり 菊地司bs・松岡正巳dr・大本雅代vo ロック系バンド・音楽青年期の終焉
9 2006〜2007 Jazz SOLA 加藤愛bs・河北洋平dr・酒井麻衣子vln ジャズに回帰
10 2007〜2014 Jazz SOLAU→Jazz SOLA(名称変更) 栗田敬子vln・酒井麻衣子vln・烏谷紀興gt・加藤愛bs バイオリン2器のエレガンス
10 2008 クラシック音楽に傾倒 ショパンのノクターンを弾く(1曲だけ)・クラシック音楽会に通う 聴くだけ年5〜6回
10 2008〜2014 作詞作曲に没頭・自ら歌って発表 10曲作詞作曲 2008年と2013年に個人発表会
11 2012〜2024現在 DUO活動のスタート 大本雅代vo→香川香子→栗田敬子→大野英孝→渡部深雪→田中千尋→木下由花  
11 2011〜2012 ぬるいコーヒーマリー大本とぬるいコーヒー(七転八起) 大野英孝bs・大本雅代vo ぬるいコーヒは大野さんとのDUO。 (七転八起)は名称変更 ベースとのDUO
12 2015〜現在 ぬるいコーヒーに赤いバラT→U→V(番号の名称変更はなし) 栗田敬子vln・テンテンflu2015〜2019→渡部深雪flu2016〜2020
→木下由花flu2023〜現在・大野英孝bs2015〜2018
クラシカル・ジャズ・音楽性に満足
番外 2019〜現在 千尋&玉貫DUO 田中千尋tp トランペットDUO
番外 2018年1月〜現在 ジャズボーカルを歌う 20曲を覚えた。2022年秋から「ジャズボーカル祭り」がスタート  
  2020年末〜2022年春 コロナ感染拡大    
13 2021〜現在 松山シニア・ジャズバンド 岡田弘之tp・佐藤康弘gt・塩ア卓三dr 70歳以上
番外 2022年8月 (松山)おいでや!ジャズ委員長を辞任・顧問就任 田中千尋新委員長 団体活動を縮小
番外 2022年12月〜現在 玉貫・今村ビートルズ・バンド 今村貴志vo&gt ビートルズ・バンド・青春回帰
番外 2023年4月 耳鼻科医院を閉院 社会活動を終了・隠居 音楽活動のみ


バンド名 メンバー 備考
1 1992〜2017 Jazz paradise (グレッチ木曜バンド) 渡辺綱幸bs・山本慎二dr・中井由美子pf・栗田敬子vo&pf・武智大和vo・池内美砂as・青木俊憲gt・小笠原慎吾tp 私を育ててくれたマザー・バンド
番外 1998〜2000 STM2JOY Band(松山市医師会バンド) 末光清貞gt・松浦秀人dr・.山田是滋vo・上甲裕継vo&gt・増田昌彦key 松山市医師会仲間
2 2000〜2001 権之笑 佐々木千之dr・門石久仁子bs 初めての自前バンド・エネルギッシュな若手二人
3 2001〜2002 松山おじさんジャズバンド 竹内学vo・大野英孝bs・内田修一dr 50歳前後の4人組
4 2003〜2004 AKIKO&Erijha
&松山おじさんジャズバンドU
越智エリアflu・阿部晃子as・大野英孝bs・松岡正巳dr 美人フロントとおじさん
5 2004〜2006 ひまわり 菊地司bs・松岡正巳dr・大本雅代vo ロック系バンド
6 2006〜2007 Jazz SOLA 加藤愛bs・河北洋平dr・酒井麻衣子vln ジャズに回帰
7 2007〜2014 Jazz SOLAU→Jazz SOLA 栗田敬子vln・酒井麻衣子vln・烏谷紀興gt・加藤愛bs バイオリン2器のエレガンス
8 2011〜2012 ぬるいコーヒーマリー大本と七転八起 大野英孝bs・大本雅代vo ベースとのDUO
10 2015〜現在 ぬるいコーヒーに赤いバラT→U→V 栗田敬子vln・テンテンflu2015〜2019→渡部深雪flu2016〜2020
→木下由花flu2023〜現在・大野英孝bs2015〜2018
クラシカル・ジャズ・音楽性に満足
番外 2019〜現在 千尋&玉貫DUO 田中千尋tp トランペットDUO
11 2021〜現在 松山シニア・ジャズバンド 岡田弘之tp・佐藤康弘gt・塩ア卓三dr 70歳以上
番外 2022〜現在 玉貫・今村ビートルズ・バンド 今村貴志vo&gt ビートルズ・バンド


Smiley(^-^)Tama 2024年8月29日記
NO 権之笑 その1 結成

Smiley Tama'
My Histry
「その1・2001年7月バンド結成」
「玉貫ピアノを始めて10周年記念ライブ」を終えて、自立の気分高揚があった。この頃から「木曜グレッチバンドはセッション・バンドだ」と朧げながら理解できるようになってきていた。それまで「セッションバンドの意味」は十分理解できていなかった。「来るもの拒まず。去る者追わず」と言うグレッチ木曜バンドの理念は「まさにセッションバンド」を意味していたのだが、セッションという場に参加したことがなかった私は体感していなかった。
「自前のバンドが欲しい!」。10周年を終えた後、心に芽生えていた。ほろ酔いでリスキーに腰掛けた。マスターが唐突に「この人でいいんじゃない」と訳に分からないことを言う。半年前からシュガービレッジが始まっていた。バンドは店が用意して、プログラムはストリート方式で4時間4セット、多くは2バンドの時間交替(演奏店間の移動はない)。「リスキーのアマチュア枠にピアノ・メンバーが決まっていない」ことが話題になっていたらしい。ドラムは佐々木千之さんだ。僕は即答快諾。待つこと10日間。ベースに「門石久仁子さんが決まった」と知らされた。門石さんの愛称「ゴンちゃん(権)」と私のSmiley(笑)と佐々木千之さん(之)の名前を合わせて、権之笑とバンド名を決めた。シュガービレッジで30分2セット、10曲を演奏して自立感を得た。
Smiley(^-^)Tama 2024年8月29日記
NO34 権之笑 その2 バンド活動・遠征

Smiley Tama'
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 曲を定めて、構成を決め、事前に言葉で音楽性を語り合って相談し、改善点を見つけて繰り返し練習する。グレッチバンドではしなかった練習方式だ。ドラムもベースも自己練習もする。力量不足のピアノの僕はもちろん必死だった。ベースは20代最後の女性、ベースに懸命で一日に数時間練習している。前腕の筋肉が太くなった。ビートが強く音も大きい。弦のうなりが聞こえる。ドラムはフージョン系だ。複雑なリズム感をもち、ビートが強い。自在にアタック音を使って、ダイナミックスを創る。二人ともから「自在な真のジャズをやりたい」と言う熱望が感じられる。自己主張が強すぎてうっとうしいとも感じるが、「ぬるま湯に浸っていることに嫌気がさしていた自分」には僥倖だった。
 権之笑は「私にとって初めてのバンド」だった。年長者ではあるが、バンド運営の経験はない。実力では私が彼らに届いてなかったで、彼らの意見や希望を聞いた。20代の彼らは「外の世界や数多いライブ演奏チャンス」を求めていた。私は年長者の経験で出演機会を得ることでバンド活性を維持しうつつ、約1年間練習と演奏活動を続けた。翌2015年夏に「今治ジャズタウン」「徳島ジャズストリート」に出演した。音楽的には楽器特性に拘らず全員等分の役割分担をバンド理念にした。ベースもドラムも自分を打ち出してぐいぐい出ることを信条のミュージシャンだった。芯になるべき私のピアノよりベースとドラムが前に出た。店や聴き手から「うるさい」との批判もあったが、私は構わなかった。セッションバンドとは全く違った音創りになった。楽しかった。
Smiley(^-^)Tama 2024年8月29日記
NO33 権之笑 その3 解散

Smiley Tama'
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 2007年夏、「今治ジャズタウン」「徳島ジャズストリート」「酒好ライブ」を経験して、秋に権之笑は円満自然に解散した。結成ちょうど1年だった。「経験したことがなく、機会も得難い遠方へのライブ行脚ができて楽しかった」と語ってくれたのは、大きな私の歓びだった。彼らとの演奏活動は大きな思い出になっている。権之笑の解散は、メンバーの就職も理由だったが、音楽性や力量の差(私が不足)も大きかった。私は若い人たちのと居て楽しかったが、若い人たちは物足りなかっただろう。これ以上長期のバンド維持は無理だった。礼節ある彼らは素振りを見せなかったが、それを感じない鈍感な50歳でもなかった。彼らから切り出される前に私から提案した。彼らはごく当たり前のように承諾した。
Smiley(^-^)Tama 2024年8月29日記
NO32 松山おじさんジャズバンド ’結成’

Smiley Tama'
My Histry
 2001年權之笑が解散すると、2002年初め、年代の揃ったPF・Bs・Ds・男性Voも男4人でバンドを組んだ。人物はそえぞれに知っていた。1回目の練習は、全員がテンポのキープだけに集中して、相手を伺い、探りあいだ。いきなりガンガン競い合った権之笑とは真反対の始まりになった。ぢるくて、、どうにも音楽にならない。大人ばかりなのでそのことに充分気づいてはいたが、探り合いは止まらない。なんと客が「こんな冷めたコーヒーみたいな音楽は聴いてられない」と怒りだしてしまった。退職記念に夫婦で旅行してきたらしい。謝ったが怒りは収まらなかった。真実ではあったのだが、お陰で1回目の練習は練習は散々だった。
Smiley(^-^)Tama 2003年1月20日記
NO32 松山おじさんジャズバンド’ 活動と解散’

Smiley Tama'
My Histry
 次の回からはだいぶんマシになったが、探り合いはしばらく続いた。年齢を重ねたからこそ起こる養親深さだと皆分かっているのだが、打ち破れなかった。練習回数は多かった。7回目くらいから、探り合いの安全運転が良い方向に結果を出して、穏健な間違いないサウンドを創れるようになった。音楽的な意思を押し付けない姿勢が、店にも客にも好まれたのか、半年ほどで4回のライブをさせてもらった。遠征は新居浜のバンガード・ビレッジだった。気負って行ったのだが、食事の店でものすごく騒がしくて演奏は聞こえなかった。録音も聞こえないのがバンドとしては無念だった。その年2002年11月、Dsの東京転勤で解散になった。なお、客が言った「冷めたコーヒー」は「ぬるいコーヒー」に変えて、私のバンドの名前になった。
Smiley(^-^)Tama 2025年4月29日記
NO31 AKIKO&Erijha & 松山おじさんジャズバンドU 結成

Smiley Tama'
ボヤキ&グチ
おじさんジャズバンドからドラムとボーカルが抜けたので、再編成を考えた。2003年頃、私は美女が好きだった。それで美女たちに声をかけてみたら、なんと1回だけだが4人の美女(ボーカル・フルート・サックス・バイオリンが揃った、慎重も165センチ以上とスタイルも抜群だった。僕はその情景と好運にうっとりした。しかしボーカルは断り、バイオリンは多忙を理由に去った(彼女は1年後に参加した)。結果、越智エリアさん(フルート)と阿部晃子さん(サックス)をフロントにして、ピアノ玉貫・ベース大野英孝・ドラム松岡正己のバンドが出来た。越智エリアは実力のあるフルート奏者だしジャスのセンスもあった。晃子さんはサックスの講師で、サックスの実力はあるがジャズは初体験だ。ドラムの松岡さんは松山のロック界では実力を知られた大御所格だった。ジャズも経験したくてバンドに入ってくれた。2006年の「ひまわり」解散まで3年間付き合ってくれた。ジャズドラムではないバンドの音楽性を楽しむことが出来た。感謝している。
Smiley(^-^)Tama 2025年4月29記
NO30 AKIKO&Erijha & 松山おじさんジャズバンドU 活動と解散

Smiley Tama'
ボヤキ&グチ
 AKIKO&Erijha&オジバンUの活動期間は2003年1年間だったが、1年間で6回のライブを行った。美人フロントなので客に喜ばれた。しかし音楽的に出色は「2003年8月11日堀之内特設ステージの松山まつり」でのステージだった。関家(Gt)が加わったRicardo Bossaは20年たったいまでも感動が蘇る。幸い録画があるので繰り返し見ている。そのほかのライブも音楽的にはまあまあで、大きな傷はなかった。阿部さんが今治に引越しすることになり、それを機に大野さんが辞めて、オジバンUは2004年3月解散になった。
Smiley(^-^)Tama 2025年4月29記
NO29 ひまわり結成

Smiley Tama'
ボヤキ&グチ
越智さんと阿部さん、大野さんがやめて活動停止になった。2003年AKIKO&Erijhaのライブにb−カルの大本雅代さんが随時参加していた。私は映画音楽「ひまわり」をロックアレンジを温めていた。ヘンリーマンシ^ニのバラード「ひまわり」をロックで演奏することを唯一の目的にしてバンド「ひまわり」を2004年6月に結成した。べースは当時22歳だった菊地司(エレキベース)を誘った。菊地さんは渡辺綱幸さんん弟子で、16歳でグレッチ(ジャズパラダイス)に顕れて、18歳から2年弱、大阪の音楽院で学んで、帰松してしばらくだった。歌謡曲の伴奏が多くて、ジャズ・ロックのバンド経験はなかった。バンド名はバンド結成の私の意匠そのままで「ひまわり」。
 大本雅代さんはジャズとロックの歌手で、このあと「おいでや!ジャズストリート」の強い協力者ともなってくれた。歌唱力があり、営業力もあったので、バンドの活躍の場を提供してくれた。このバンドはなんと言っても「ひまわり」だった。2005年11月坊っちゃんジャズフェスティバルでの「ひまわり」は私の金字塔になった。、
Smiley(^-^)Tama 2025年4月29記
NO29 ひまわり」の活動と解散

Smiley Tama'
ボヤキ&グチ
ドラムの松岡さんは、ドラムはハードロックで音は激しいが、性格は温和でおとなしいひとです。50歳近くで独身。高校以来、ロックの経験がない私のサポートをしてくれた。菊地クンは20歳を越したばかりでベースギターの経験もこれから積むところだった。ハードロックやフュージョンなど当代流行の音楽に関心はなく、「歌謡曲の伴奏が好き(加えて結婚願望を表明していた。相手は未定)」と言う古風な考えをもっていた。メンバーはロック系なんだが、ロック曲は「ひまわり」だけで、ジャズ・ブルース。ボサノバをやっていた。そこにボーカル大本雅代が加わった。大本さんのパンチ力のある唱法と交渉力でたくさんのライブをやらせてもらった。
音楽は”バラード「ひまわり」をロックアレンジでする’が絶対命題で、っ毎回2回、トータルで30回練習はしたのではないかな?2005年の1年間、週1回グレッチに集まって練習した。2005年11月23日県文での「ひまわり」演奏が大喝采を浴びて、想い出の華舞台となった。目的を多しいて解散の時期でもあったが、松岡さんの結婚が契機になって円満に解散した。
Smiley(^-^)Tama 2025年4月29記
NO29 Jazz SOLAT結成

Smiley Tama'
ボヤキ&グチ
2005年年末に「ひまわり」を終了して半年たった2007年梅雨時、グレッチもマスター高橋修さんにベース候補の推薦を尋ねた。「ロックを1年間したから、ジャズらしい音楽をやりたい」とお願いした。高橋修さんは加藤愛さんを推した。「タイミングがONである。よたったり、押したりしない」が推薦の弁だった。僕は知らないひとだった。松山大の新卒で、クラッシュでベースを弾いていると言う。
Smiley(^-^)Tama 2025年4月29記




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